『限りなく透明に近いブルー』はなぜ今も色あせないのか
「出現」としての衝撃
1976年、武蔵野美術大学に在籍していた24歳の青年が書いた一篇の小説が、日本の文壇を揺さぶりました。『群像』1976年6月号に群像新人文学賞受賞作として掲載され、同年7月5日に第75回芥川賞を受賞、7月9日に講談社から単行本化されています。しかも装丁は著者自身が手がけていました。
売れ行きもまた異例でした。単行本と文庫を合わせた発行部数は2015年時点で367万部に達し、芥川賞受賞作としては史上最多とされています。純文学が、時代の若者たちに「自分たちの物語」として受けとめられた稀有な例といえるでしょう。
当時の評価を象徴するのが、埴谷雄高の言葉です。埴谷はこの作品を一つの「出現」と呼び、セックスを嫌味も誇張もなく淡々と描く平静さを生来の資質と見つつ、作品全体の構成が練り上げられている点から、若くして冷静な反省力と構成力を備えた作者だと驚きをもって評しました。
一方で、文芸評論家の江藤淳はこの作品を「サブカルチャー」と評しています。発表当時はその過激さから賛否両論が飛び交いました。称賛と反発がこれほど激しく分かれたこと自体が、作品の持つ破壊力を物語っています。
舞台――福生という「原色の街」

物語の舞台は、米軍横田基地を抱える東京・福生です。元米軍住宅の「ハウス」にはロックやジャズが鳴り響き、若者たちのドラッグ、セックス、暴力が繰り広げられる退廃の光景が描かれます。語り手は作者と同じ名を持つ「リュウ」。彼と仲間たちは、日常的に乱痴気騒ぎをくり返します。
国立国会図書館の書誌に添えられた紹介文は、この作品をスキャンダラスに見える青春の奥に潜む深い亀裂を、醒めた感性と詩的イメージで描いた鮮烈な文学とまとめています。表面の過激さではなく、その奥にある「亀裂」こそが主題だという読み方です。
福生という土地の選択も重要です。基地の街は、アメリカ文化が日本の日常に直接流れ込む場所であり、戦後日本の矛盾が最も露わになる場所でもあります。ある書き手は、70年代東京のユースカルチャーを活写しつつ、福生という土地の特殊性に戦後日本の実情を重ね合わせた退廃劇だったと振り返っています。近年では與那覇潤氏の評論『江藤淳と加藤典洋』でも、「沖縄返還」という戦後史の節目と結びつけてこの作品が論じられています。単なる風俗小説ではなく、戦後史を読み解くテキストとしての価値が、今も見直され続けているのです。
文体――「見る」ことに徹したカメラの眼
この小説の最大の魅力は、やはり文章そのものにあります。詩的な表現や前例のない文章表現を多用し、当時の文芸界に衝撃を与えたと評される通り、その文体は従来の日本文学とはまったく異なっていました。
特徴的なのは、語り手リュウの徹底した「傍観者」としての視線です。乱交やドラッグの場面でさえ、リュウは感情を説明せず、光の具合、色彩、匂い、肌の質感、音といった感覚的な情報だけを、まるで映画のカメラのように克明に記録していきます。激しくも空虚な風景を、主人公リュウの視点から淡々と描き出していく――この温度の低さこそが、読む者に強烈な印象を残します。村上龍さんが後に映画監督としても活動したことを思えば、この映像的な描写力は必然だったのかもしれません。
この点について、ある書評家は現場感覚に裏打ちされた落ち着いた記述が帯びる「低空飛行の倒錯性」とも呼ぶべき独特の趣があり、悪趣味なセンセーショナリズムに陥ることなくデカダンスを描いていると指摘しています。描かれる内容は過激なのに、文章は決して扇情的にならない。この落差が、作品を一級の文学に押し上げているのです。
読者の感想にも、同じ点に触れたものがあります。ある読者は、何も汚くなく、何も悪ではないという描き方で、嫌悪感を持つかどうかは読者の自由に委ねられており、本が価値観を押しつけてこないことに安心して読めたと述べています。道徳的な裁きを下さない語りが、かえって読者に深く考えさせるのです。
タイトルに込められたもの――透明と青
『限りなく透明に近いブルー』という題名は、日本文学史上でも屈指の美しいタイトルでしょう。なお、当初の題名は過激な性的表現を含むもので、改題を経てこのタイトルになったことはよく知られています。
この言葉は、物語の終盤、心身ともに追いつめられたリュウが、ガラスの破片越しに夜明けの空を見る場面に結びついています。大阪大学の國分美幸氏の論文が「ガラスの破片に映し出された色と風景」を副題に掲げているように、ガラスと色彩は作品読解の鍵です。また佐藤秀明氏の論考「粘液とガラスの破片」も、ぬめった肉体的な感覚と、硬質で透明なガラスとの対比に着目しています。
混濁しきった日々の果てに、リュウは「透明に近い青」を見いだす。それは汚れを洗い流した純粋さへの憧れであり、自分を取り囲む世界から距離を置いて「見る」者として生きていく決意の象徴とも読めます。講談社の新装版紹介が、退廃の日々の向こうに空虚さを超えた希望がきらめくと記しているのは、まさにこのラストの感触を言い当てたものでしょう。ある読者が、タイトルから若者の純粋で憂いを含む魂の色を思い浮かべたというのも、うなずけます。
今、読む意味
発売から40年以上を経ても色あせることなく、幅広い世代に支持されている理由はどこにあるのでしょうか。
ひとつは、この作品が描いた「豊かさの中の空虚」が、形を変えて今も続いているからだと思います。政治の季節が終わり、何を信じればよいのかわからない若者たちが、刹那的な快楽に身を委ねながら、どこかで透明なものを渇望している。その構図は、SNSや情報の洪水の中で生きる現代の若者にも重なります。
もうひとつは、やはり文章の力です。感情を語らず、ただ見つめ、感覚を言葉に置き換えていく。その手法は、半世紀を経た今読んでも驚くほど新鮮です。前述の書き手が、この作品に出会って言葉は説明の道具であるだけでなく表現の手段でもあると再認識し、やがて自ら小説を書き始めたと語っているように、本作は多くの後進の書き手にも決定的な影響を与えてきました。
村上龍さんは、その後も『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』『五分後の世界』『半島を出よ』と、時代の暗部に切り込む作品を書き続けました。幻冬舎の追悼文が『限りなく透明に近いブルー』に始まり、常に若い世代に向けて衝撃的な作品を発表し続けたと記している通り、そのすべての原点がこの一冊にあります。訃報に接した今こそ、ページを開き直し、24歳の青年が見つめた「限りなく透明に近いブルー」をもう一度確かめてみたいものです。
もう一度、読まなくっちゃね!

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