最近、東野圭吾さんの小説を立て続けに三冊読みました。『虚ろな十字架』『さまよう刃』『夜明けの街で』です。読み終えての正直な感想は、「どの作品も、うますぎる」のひと言に尽きます。
なかでも『さまよう刃』は、今回が二度目の読書でした。発表は2004年。20年以上前の作品ですが、まったく古さを感じません。むしろ、いま読むからこそ胸に迫るものがありました。今回は、この『さまよう刃』の物語と魅力、そして東野作品全体に通じる魅力について、考えてみたいと思います。
『さまよう刃』はどんな物語か
主人公は、妻を亡くし、娘の絵摩と二人で暮らす長峰重樹。ある夜、花火大会に出かけた絵摩が帰ってきません。やがて彼女は、変わり果てた姿で発見されます。犯人は、少年たちでした。
悲しみに沈む長峰のもとに、一本の匿名電話がかかってきます。犯人の名前と居場所を告げる密告でした。半信半疑で向かった先で、長峰は娘が受けた仕打ちの動かぬ証拠を目にします。そして、その場に戻ってきた少年を、衝動のままに手にかけてしまうのです。
もう一人の犯人を追って、長峰は逃亡の旅に出ます。一方で警察は、被害者の父でありながら殺人犯となった長峰を追わなければなりません。物語は、復讐を遂げようとする父と、彼を追う刑事たち、そしてその周囲の人々の視点を行き来しながら進んでいきます。
書き出しから引き込まれる文章力
真っ直ぐに伸びた銃身の鈍い輝きに、長峰は心の奥底が疼くのを感じた。かつて、射撃に熱中していた頃のことを思い出したのだ。
冒頭は、長峰が銃身の鈍い光を見つめ、かつて射撃に熱中していた頃を思い出す場面から始まります。
たったこれだけの描写で、読者は「この男は銃を扱える人間だ」と知り、同時に、その心の奥で何かがうごめき始めていることを感じ取ります。物語の行く末を、静かに予告している一文なのです。
東野さんは、純文学のように凝った比喩や技巧的な表現を多用する作家ではないと思います。文章は平易で、すっと頭に入ってきます。けれども、それは決して「単純」ということではありません。必要な情報を、必要なタイミングで、過不足なく差し出す。その精度が極めて高いのです。だからこそ、ページをめくる手が止まりません。飽きさせない文章とは、こういうものなのだと改めて感じました。
多面的に描かれる「正義」
この作品の大きな魅力は、ひとつの事件が、さまざまな立場から多面的に描かれている点です。
娘を奪われた父親の怒りと絶望。職務として長峰を追いながらも、心のどこかで彼に共感してしまう刑事の葛藤。少年法に守られる加害者の存在。逃亡中の長峰と関わることになる人々の揺れる思い。そして、世間やマスコミの反応。
読者は、誰か一人の視点に寄り添うことを許されません。「長峰の気持ちはわかる。でも、復讐は許されるのか」「法は本当に被害者を救っているのか」。そんな問いが、物語の進行とともに次々と突きつけられます。
作者は安易な答えを用意していません。だからこそ、読み終えたあとも、ずっと考え続けてしまうのです。20年前の作品が古びないのは、この問いが、いまも解決されていない普遍的なテーマだからでしょう。
しっかりと張られた伏線
ミステリー作家としての東野さんの手腕も、存分に発揮されています。何気ない場面や会話に、きちんと伏線が張られており、終盤でそれらがつながっていく快感があります。
二度目の読書では、「ここにすでに布石が打たれていたのか」と気づく場面がいくつもありました。結末を知っていても面白い。むしろ、知っているからこそ見えてくるものがある。再読に耐える作品というのは、構成がそれだけ緻密だということだと思います。
深く、深く掘り下げられる心理描写
そして何より、私がこの作品でもっともすぐれていると感じたのは、心理描写です。
主人公の長峰はもちろん、刑事たち、加害少年の周囲の人々、逃亡中に出会う人物まで、脇役に至るまで一人ひとりの心の動きが丁寧に描かれていきます。単なる「役割」としての登場人物がいないのです。
たとえば長峰の心情は、怒り一色では描かれません。復讐への決意の裏側に、迷いや虚しさ、娘への思い出が入り混じり、揺れ動きます。追う側の刑事もまた、正義と職務のあいだで引き裂かれています。善と悪、加害者と被害者という単純な線引きでは割り切れない人間の姿が、そこにはあります。
この「脇役まで深い」という特徴は、『さまよう刃』に限りません。今回一緒に読んだ『虚ろな十字架』でも、罪と罰、そして償いをめぐって、登場人物それぞれの心の内が重層的に描かれていました。『夜明けの街で』も、一見すると男女の関係を描いた物語ですが、その奥にある人間の弱さや秘密が、じわじわと浮かび上がってきます。
東野作品の魅力とは何か
三冊を続けて読んで、東野作品の魅力を改めて整理すると、次のようになるのではないでしょうか。
まずは、読みやすさと巧みさの両立です。平易な文章でありながら、情報の出し方や場面転換が見事で、読者を最後まで引っ張っていきます。
次に、社会的なテーマへの鋭い視点です。少年犯罪、死刑制度、罪と償い。重く、答えの出ない問題を、エンターテインメントとして読ませながら、読者に深く考えさせます。
そして、人間の心を描く力です。ミステリーの謎解きだけで終わらず、「人はなぜそうしてしまうのか」という心の奥底にまで踏み込んでいく。だからこそ、トリックや結末を知ったあとでも、何度でも読み返したくなるのだと思います。
エンターテインメントでありながら、文学としての深みも持っている。それこそが、東野圭吾という作家が長年にわたって多くの読者に愛され続けている理由なのでしょう。
おわりに
『さまよう刃』は、決して明るい物語ではありません。読んでいて苦しくなる場面もあります。それでも、最後まで読まずにはいられない力を持った作品です。
一度読んだ方も、ぜひ再読してみてください。初読のときには見えなかった伏線や、登場人物の心の機微に、きっと新たな発見があるはずです。そして、まだ読んでいない方には、東野作品の真骨頂を味わえる一冊として、自信を持っておすすめします。
また、書店に行って、次の作品を買わなくては。それだけの魅力がありますから。

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