知られざる直木賞の由来|直木三十五の破天荒な生涯・代表作・今も読める作品を解説

作家の生涯

直木賞の名前の由来となった男 直木三十五とはどんな作家だったのか?

出典:Wikipedia

毎年1月と7月、日本中のメディアが沸き立ちます。芥川賞と直木賞の発表です。受賞者の名前はニュース速報で流れ、書店では受賞作が平積みになります。しかし、「直木賞」の「直木」が誰を指すのか、即座に答えられる人は意外と少ないのではないでしょうか。芥川賞の「芥川」は誰もが知っています。『羅生門』『蜘蛛の糸』の芥川龍之介です。では直木は?

実は「直木三十五(なおき さんじゅうご)」という、これまた数字の入った奇妙なペンネームを持つ作家が実在しました。大正から昭和初期にかけて大衆小説の世界で一世を風靡し、43歳という若さでこの世を去った人物です。今回はそんな「直木三十五」の生涯と作品、そして直木賞誕生の経緯を詳しくご紹介します。

生い立ち 大阪の病弱な少年

直木三十五は1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれました。本名は植村宗一(うえむら そういち)。弟は後に東洋史学者として知られる植村清二となります。

幼少期から体が弱く、母方の叔父の親友であった大阪谷町の医師・薄恕一(うす じょいち)のもとに幼稚園のころから通院していました。ちなみにこの薄恕一は、相撲界でパトロンを指す「谷町(タニマチ)」という言葉の語源となった人物として知られています。直木はのちに自叙伝『死までを語る』の中で、薄への深い感謝を綴っています。

桃園小学校、市岡中学校と進んだあと、1911年(明治44年)に早稲田大学英文科予科へ入学します。父は少ない収入の中から仕送りを続けましたが、直木は学費にあてるお金まで使い込んでしまい、とうとう月謝未納で除籍処分となります。それでも4年間親をだまして仕送りを受け続け、挙句に卒業記念写真まで撮影して実家に送ったという逸話が残っています。後年「文壇一の借金王」と評された片鱗は、この頃からすでに見え隠れしていました。

流浪の青年時代 事業も映画も失敗続き

大学を除籍になった直木は、それでも文化の世界への夢を手放しませんでした。1918年(大正7年)にはトルストイ全集刊行会(後の春秋社)を立ち上げ、翌年には雑誌『主潮』を創刊します。さらに「冬夏社」を設立しますが、いずれも事業としては失敗に終わります。

出版社を興したかと思えばその金で豪遊し、仲間のお金で別の会社を設立するなど、この時期の直木の行動は奔放そのものでした。1921年(大正10年)には『時事新報』で「直樹三十一」という筆名で執筆を始めます。これが「直木三十五」というペンネームの原型です。

1923年(大正12年)9月、関東大震災が起きます。直木は被災し、故郷の大阪へ戻りました。ここでプラトン社に入社し、雑誌『苦楽』の編集を担当します。川口松太郎(のちに第1回直木賞を受賞する人物)とともに雑誌作りに励みました。

やがて映画の世界にも乗り出します。マキノプロダクションと組んで映画制作に没頭し、大正13年封切りの映画「籠の鳥」は制作費わずか1500円から17万円以上の純益をあげるという大成功を収めました。しかし、その後に製作した映画群は尽く赤字に終わり、1927年(昭和2年)に映画界から撤退します。去り際に「キネマ界児戯に類す(映画など子供の遊びだ)」と捨て台詞を吐いたというから、豪快というか何というか。

不思議なペンネーム「直木三十五」の由来

ここで一度、このユニークなペンネームの成り立ちについて触れておきましょう。

「直木」という姓は、本名「植村」の「植」の字を分解したものです。「植」は「木を直に立てる」という意から「直」と「木」に分けられます。じつに文学的なセンスを感じさせる命名です。

一方の「三十五」はもっとユーモラスな話です。31歳の誕生日を迎えた時に「直木三十一」として筆名デビューし、毎年誕生日のたびにペンネームの数字を「三十二」「三十三」と変えていくという、なんとも奇妙なスタイルを続けました。

34歳の誕生日に「直木三十四」と書いたところ、担当編集者が勘違いして「直木三十三」と書き直してしまいました。本人も訂正せずそのままにしていましたが、「三十三(さんざん)」では縁起が悪い、「みそそさん」と呼ばれるのも嫌だということで、35歳になる前に「直木三十五」へと名を改めました。

その後は「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのを嫌ったから、あるいは親友・菊池寛から「もういい加減にやめろ」と諭されたから……という2つの説が残っており、どちらが本当かはわかりませんが、彼らしい逸話です。直木が世を去った時の実年齢は43歳でしたが、ペンネームは「三十五」のまま。数字と実年齢はついに一致しませんでした。

「流行作家」としての絶頂期

映画業界から離れた直木は、ようやく腰を据えて執筆に専念するようになります。1923年ごろから親交のあった菊池寛が創刊した雑誌「文藝春秋」では「文壇評判記」という毒舌のゴシップ連載を担当し、話題を呼びました。菊池寛はその文章のキレを「天才だ」と褒め称えたといいます。

転機となったのは1929年(昭和4年)の『由比根元大殺記』の成功です。江戸時代の由比正雪の乱を題材にしたこの作品で、直木はついに大衆作家として認められます。

そして1930年〜1931年(昭和5〜6年)にかけて、『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した『南国太平記』が大ヒットします。直木三十五は一躍、時代の寵児となりました。

創刊10周年の「文藝春秋」執筆回数番付では「西の横綱」に直木三十五の名前が挙がるほどの人気を誇り、死の前年(昭和8年)には改造社から「直木三十五書き下ろし全集」全12巻の刊行が始まるほどでした(実際に書き下ろされたのは4巻でしたが)。

代表作を読む

『南国太平記』

直木の代表作にして最高傑作と評される長編歴史小説です。幕末の薩摩藩を舞台に、いわゆる「お由羅騒動」を軸として描かれます。

藩主・島津斉興の世子である斉彬と、斉興の愛妾お由羅の方との間に渦巻く権力争い。斉彬を支持する改革派と、お由羅の子・久光を担ごうとする勢力の対立を、呪術・諜報・剣客たちの活躍を絡めながらダイナミックに描いています。

昭和5〜6年の作品であるにもかかわらず、現代に読んでも色あせないテンポのよさと読みやすさが特徴です。文章は句点を多用したリズミカルな文体で、戦闘シーンの迫力は黒澤明の映画を彷彿とさせるという評もあります。

なお、お由羅騒動の史料は歴史研究家・三田村鳶魚が調べて発表したものを元ネタにしたとして三田村が怒り、「大衆文藝評判記」で批判しました。これが皮肉にも、海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子ら(いずれも後に直木賞を受賞する)本格的歴史作家が育つきっかけになったとも言われています。

『仇討十種』(1924年)

大阪の『苦楽』誌での連載をまとめた短編集です。荒木又右衛門の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)、赤穂事件(忠臣蔵)など、敵討ちにまつわる立ち回りを生き生きと描いた初期の重要作で、大阪時代に生み出されたこの作品が直木の最初の評判を得ることになりました。

『由比根元大殺記』(1929年)

由比正雪の乱を題材にした時代小説で、直木が大衆作家として認められた出世作です。

『黄門廻国記』

水戸黄門・徳川光圀が全国を漫遊するという人気モチーフを描いた作品で、月形龍之介主演の映画『水戸黄門』の原作にもなりました。直木作品を原作とした映画は50本近くにのぼります。

『日本剣豪列伝』

直木が亡くなる直前まで執筆していた遺稿作品です。宮本武蔵、山岡鉄舟をはじめとする剣豪たちの生き様を描いています。幼少期から剣士への憧れを持ち続けた直木らしい集大成と言える作品です。

「文壇一の借金王」 破天荒な人生の影

天才的な文筆の才の一方で、直木の私生活は生涯を通じてお世辞にも模範的とは言えませんでした。

浪費癖は死の直前まで続き、1934年に43歳で亡くなった時、約4000円(現在の価値で約1000万円相当)の香典が集まりました。しかしそれでも、残された借金はその4倍にのぼったといいます。菊池寛が文藝春秋で追悼号と全集を企画し、残された家族のために借金返済に奔走するほどでした。

新聞には「文壇一の借金王」と書かれる始末でしたが、それでも多くの人に愛されたのは、その豪快さと才能への敬意があったからでしょう。菊池寛はのちに「直木がこのことを知ったら受賞者に『おい、賞をやったんだから分け前を少しよこせ』などと無茶を言いそうだ」と語ったといいます。実にチャーミングなエピソードです。

1934年2月24日、結核性髄膜炎により東京帝国大学附属病院で永眠しました。43歳でした。

直木賞誕生の経緯 菊池寛の「亡友への追悼」

直木三十五が亡くなった翌年、1935年(昭和10年)、親友の菊池寛は「文藝春秋」の昭和10年1月号で両賞の制定を宣言しました。

菊池寛は文藝春秋の創業者であり、作家・劇作家・ジャーナリストとして時代をリードした人物です。大正13年に創刊した「文藝春秋」は芥川龍之介や直木三十五ら一流の書き手を擁し、急速に影響力を拡大しました。

芥川龍之介は昭和2年(1927年)に35歳で自ら命を絶ち、直木三十五は昭和9年(1934年)に43歳で病死しました。菊池はこの二人の盟友を相次いで失い、その功績を後世に伝えながら、新たな才能を世に送り出す場を作ろうとしたのです。

制定宣言にはこう記されています。「亡友を紀念するかたがた、無名もしくは無名に近き新進作家を世に出したいためである」。芥川賞は純文学の新人作家に、直木賞は大衆文学(エンターテインメント小説)の新進・中堅作家に贈られる賞として、同時に設立されました。

興味深いことに、「純文学」と「大衆文学」というジャンル分けを提唱したのも菊池寛自身でした。文壇のドル箱スターだった直木三十五を失った痛手を、菊池がいかに深く受け止めていたかがわかります。

第1回直木賞は1935年、川口松太郎の『鶴八鶴次郎』『風流深川唄』が受賞しました。その選考委員には白井喬二、三上於菟吉、吉川英治、大佛次郎ら当時の流行作家が名を連ねました。

なお、現在の直木賞は正式名称を「直木三十五賞」といい、新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本(長編小説もしくは短編集)の中から最も優秀な作品に贈られます。正賞は和光の懐中時計、副賞は100万円。受賞決定は毎年7月(上半期)と1月(下半期)に発表されます。選考会は料亭・新喜楽の2階で行われ(芥川賞選考会は1階)、授賞式は帝国ホテルで開催されています。

直木三十五の作品は今も読めるのか?

直木三十五が没して90年以上が経ちます。著作権は既に消滅しており、青空文庫(aozora.gr.jp)では25作品以上が無料で公開されています。スマートフォンやタブレットで気軽に読めるので、まず試してみたい方にはうってつけです。

紙の本としては、代表作『南国太平記』が角川文庫から上下巻で復刊(2017年)されており、現在もAmazonや書店で入手可能です(各巻1200円+税前後)。電子書籍版もBOOK☆WALKERやブックライブなどで読むことができます。

その他、アンソロジー形式の時代小説集や短編集に直木作品が収録されているケースもあり、新潮文庫の『戦国英雄伝』シリーズにも名を連ねています。

青空文庫で手軽に入門し、気に入ったら角川文庫版の『南国太平記』へ、というルートが、現代の読者には最もおすすめできる読み方です。

おわりに

直木三十五という人物は、借金と放蕩にまみれながらも、笑いと情熱で時代を駆け抜けた「大衆文学の開拓者」でした。純文学が知識層のものだった時代に、歴史小説を誰もが楽しめるエンターテインメントへと昇華させた功績は計り知れません。

彼の死後90年以上が過ぎた今も、毎年2回「直木賞」の発表があるたびに、その名前は日本中に轟きます。ペンネームの数字が「三十五」のまま止まった作家が、数えきれないほどの作家の人生を動かし続けているのです。

名前だけは誰もが知っている「直木賞」。その名の主・直木三十五を、ぜひ一度、ご自身の目で読んでみてください。

参考:青空文庫(aozora.gr.jp)、角川文庫『南国太平記』上下巻(2017年)、公益財団法人日本文学振興会 公式サイト

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