落合恵子さんの生き方に学ぶ——婚外子という原点、クレヨンハウス、そして「声の小さい側」への半世紀

この人の生き方

婚外子として生まれた宿命、そして母との二人三脚

写真引用:婦人公論

落合恵子さんは、1945年1月、栃木県宇都宮市に生まれました。実父は自民党の参議院議員だった矢野登さんですが、落合さんは婚外子として、母親とふたりの母子家庭で育ちました。小学校1年生のときから東京都中野区に移り、以来、東京で暮らしながら明治大学文学部英文学科へ進学します。

婚外子として育つということは、当時の日本社会ではさまざまな差別や偏見にさらされることを意味していました。父親のいない暮らし、法的にも不利な立場に置かれた存在——そうした境遇が、のちに落合さんが「声の小さい側」の人々に寄り添い続ける作家としての原点になったことは間違いありません。

一方で、落合さんが生涯にわたって語り続けたのが、働きづめの母との絆です。忙しく働く母が、仕事の合間に絵本を読んでくれる時間が、落合さんにとってこの上なく幸福なひとときでした。「ないなら作るしかない」という発想でのちに子どもの本の専門店を開いた背景には、この絵本の時間への深い愛着があります。また、母が高齢になってから介護した経験は、著書『母に歌う子守唄』に結実しています。母への愛と社会への問いかけが、落合さんという人間の核心を形づくっているのです。

落合さんは婚外子差別に一貫して反対し、選択的夫婦別姓制度の導入にも賛同する立場を明確にしてきました。「婚外子を差別する規定は、婚外子の存在を他の子どもの2分の1と言っているに等しく、そのことを法が保証している怖さに気付く必要がある」という言葉には、ご自身の体験から湧き出る切実さがあります。


「レモンちゃん」から作家へ——ラジオ時代と転身

大学卒業後の1967年、落合さんは文化放送にアナウンサーとして入社します。同期にはみのもんたさんがいました。人気深夜ラジオ番組「セイ!ヤング」のパーソナリティとなり、「レモンちゃん」の愛称で若いリスナーたちから爆発的な支持を集めます。ゆったりと、しかし温かく語りかける話術で、「こんばんは、落合恵子です」という番組も人気を集めました。

しかし落合さんは、そのスター的な立場に複雑な思いを抱えていました。人気アナウンサーだからというだけで特別扱いされ、「若い女」として消費される状況への違和感です。ラーメン店で順番を抜かされそうになるような場面がむしろ恥ずかしくてたまらなかったと振り返っています。そこへ、海の向こうから押し寄せてきたフェミニズムの波が重なりました。

1974年、落合さんは文化放送を退社し、作家活動へと歩みを転換します。ただしラジオとのご縁はその後も続き、「セイ!ヤング」のパーソナリティは1978年まで務め、2005年にはTBSラジオで復帰、さらにNHKラジオ第1放送の「落合恵子の絵本の時間」では今も毎週日曜の朝に絵本を紹介し続けています。


「ないなら作るしかない」——クレヨンハウスという場の誕生

作家活動を本格的に始めた落合さんは、1973年に出版した『スプーン一杯の幸せ』が大ベストセラーとなります。この印税を原資として、1976年、31歳のときに東京に子どもの本の専門店「クレヨンハウス」を開設しました。

クレヨンハウスは単なる書店ではありません。子どもの本・絵本・木のおもちゃはもちろん、フェミニズムの視点を持った女性のための書籍、平和や人権・環境に関わる本を集めた「ミズ・クレヨンハウス」、オーガニック食材の「野菜市場」、自然食レストラン「HOME」「広場」など、さまざまなフロアが共存する独自の複合空間として発展してきました。1991年には大阪・江坂にも店舗を開設しています。

落合さんはクレヨンハウスの理念を「ひとつ」と語っています。それは「わたしたちが気持ちよく暮らすための提案」です。絵本もオーガニック野菜も木のおもちゃも、突き詰めればすべて同じ問いから生まれた選択だということです。スタッフが実際に本を読み、食材を試し、おもちゃで遊んだうえで品揃えを決めるというこだわりの姿勢は、半世紀近くにわたって変わっていません。

東京店は長年、表参道に根を張ってきましたが、ビルの老朽化による建て替えを機に、2022年12月、吉祥寺へ移転しました。新たな地でも絶え間なく人が訪れ、今や親子二代・三代で通うお客さんも少なくありません。「手放したら次へ進む」という落合さんのスタイルは、この移転にも貫かれています。


代表作に見る、落合さんの文学的使命

落合さんの著作は非常に多岐にわたりますが、その根底に流れるテーマは一貫しています。それは「社会構造的に声が小さな側」——女性、子ども、高齢者、マイノリティ——の視点から、世界を見つめ直すことです。

1982年に発表した小説『ザ・レイプ』は、日本で初めて女性の側から性暴力を告発した作品として大きな反響を呼びました。主人公の路子が告訴に踏み切り、裁判を通じて職場も恋人も失いながらも闘い続ける姿を描いたこの作品は、同年に田中裕子さん主演で映画化もされています。被害者であるにもかかわらず過去を暴かれ、好奇の目にさらされるという理不尽——今もなおMeToo運動などで問われ続けるテーマを、40年以上前にいち早く小説にしたことは、落合さんの先見性と覚悟を示しています。

余談ですが、筆者もこの小説を読みました。映画も観ましたが、田中裕子さんが良かったですね!

介護をテーマにした『母に歌う子守唄——わたしの介護日誌』は、老いていく母を介護した落合さん自身の体験を綴った作品です。介護の現場の現実と、母への愛情、そして社会制度への問いかけが、静かでしかし力強い言葉でつづられています。その後も改訂・増補を重ね、2017年には「決定版」として出版されました。

近年の著書では、2020年の『明るい覚悟——こんな時代に』が注目を集めました。年齢を重ねた落合さんが「老い」と向き合いながら辿り着いた言葉の数々と、落合さんが選んだ絵本22冊とを重ねたエッセイ集です。また長編小説『わたしたち』(2022年)は、1958年に出会った女子校の4人の友人が、2021年に至るまでのそれぞれの人生を生き抜く物語で、女性の連帯と個の尊厳を丁寧に描いています。また、2025年12月には『がんと生ききる 悲観にも楽観にも傾かず』(朝日新聞出版)を上梓しており、80歳を超えてなお新たなテーマに向き合い続けています。

直木賞には1982年から1986年にかけて5回候補に選ばれており、産経児童出版文化賞大賞、日本ジャーナリスト協会奨励賞、日本女性放送者懇談会賞など多数の受賞歴があります。


毎年元日に「遺書」を書く——死と向き合う生き方

落合さんには、30代後半に大切な友人を亡くしたことをきっかけに、毎年1月1日を「書き初め」として遺書を書くという習慣があるそうです。

これは決して暗い話ではありません。「死」を遠ざけず、正面から見つめることで、今この瞬間をより丁寧に生きようとする落合さんの姿勢の表れです。この姿勢は、ご自身が「老い」をテーマにした著作や講演でも一貫して示されています。

また落合さんは、体調を崩した時期の経験から「医食同源」の考え方に共感し、オーガニック食材を暮らしの中心に据えてきました。「安全なものはおいしい」という信念は、クレヨンハウスのレストランや野菜市場の運営にも直結しています。食べることへの真剣な向き合い方もまた、落合さんが80歳を超えてなお現役で発信を続けられる理由のひとつかもしれません。


年を重ねても揺るがない、その発信力の魅力

落合さんが多くの人を惹きつけてやまない理由は、どこにあるのでしょうか。

ひとつには、言葉の誠実さがあります。落合さんは決して「正しいことを言う人」として君臨するのではなく、「自分はこう感じた、こう考えた」という等身大の声で語りかけます。読者や聴衆は、その言葉の中に「自分の気持ちを代弁してもらえた」という感覚を覚えるのです。

もうひとつは、「書く」だけでなく「行動する」姿勢です。クレヨンハウスという物理的な場を半世紀にわたって維持し、週刊誌「週刊金曜日」の編集委員を1995年から務め、NHKラジオでは絵本を紹介し続ける——どれもが「発信」であり「行動」です。言葉と行動が一致しているからこそ、落合さんの言葉には重みがあります。

そして何より、落合さん自身が「変化を恐れない人」であることが大きいでしょう。表参道から吉祥寺への移転も、「手放したら次へ進む」という体質から来るものです。若い頃から、人気アナウンサーの地位を捨てて作家へ転身したあの決断と、根っこは同じです。

「悲観にも楽観にも傾かず」——これは落合さんが繰り返し使う言葉です。都合よく明るく振る舞うのでもなく、かといって嘆き続けるのでもない。ありのままの現実を見つめながら、それでも前を向こうとする「明るい覚悟」。それが落合恵子さんという人の、ゆるぎない魅力の正体ではないでしょうか。

まとめ

婚外子として生まれた宿命を、社会への問いに変え続けてきた80年。「声の小さい側」に立ち続けることで、落合さんご自身が日本社会にとってかけがえのない大きな声となっています。これからも、その言葉と行動から目が離せませんね。

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